昭和57年9月29日朝の御理解
                        入力 広崎克一
御理解第90節
 『 上(かみ)から下(しも)へ水を流すのはみやすいが、下から上に流すのは
  むつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものが
  むつかしゅうて暇が入る。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時は 
  むつかしいことがあっても辛抱してゆくうちには徳が受けられる。』

 合楽で成り行きを大切にするとか尊ぶということが云われます。やっぱり信心が好きにならんとなかなか出来ません。
 いよいよ神様を実感する喜びが出来てこなければ、成り行きそのものを大切にする、尊ぶ生き方、だからそういうあり方がありがたいものだとわかるまでが難しい、それえは下から上に水を流すように難しいかも分かりません、けいども、それが本当の事だと分からせて頂く処からその本当のことを行っておるんだ分かってまいりますとそれが有り難い楽しくなってくる、そこに、ゆはゆる、辛抱してゆくとか、成り行きを尊ぶを大切にする、せずにおれないような信心が続けられて行く所から、神様の御信用も付いて来る、ゆはゆるご神徳が受けられるというのはそこであります。
 昨日竹葉会がございましたが先だって久留米の支部の共励会の時に出所した方がえらい感心し感動したことを話したおられましたが、自分の家でもありますから恵介先生があちらに参ります、お話がダンダン進んで何か、お茶が出てご飯がでたとか、ところがご飯がずーとあたったところが恵介君の向こうの処までお箸が足らなかった、また左回しになったら左回りになっても、右回りになっても恵介君の処でお箸がなかった、皆んな頂いておられるのに恵介先生だけがいただいておられなかった、「僕のところに箸が来ないから」自分の家だから遠慮もいらないでしょう、「僕のところに箸がないよ」と云うてもいいようなもん、けいども「神様が食べるなと云いよりなさるな」と思うたのではないでしょうか、それを側のおって見ておられた方が大変感動して帰って娘に話しましたら、娘も一緒に大変感動して「感動いたしました」というお話であった。私もそれを聞きながら本当に嬉しくなりました。
 ここで本気で信心のけいこをしています、今年二十一歳になったばかりの青年教師です、それがもう合楽の信心の神髄というか、それを自分のものにしようと精進している姿である。
 私は成り行きを大切に、しかも尊ぶという生き方はそういう生き方だと思います、だからそれが有り難いと分かるまでが難しいのであってそれが有り難いと分かったらいよいよ有り難い楽しいものになってくるです、成り行きを尊ぶという大切にすると云う事、もうそこに神の声を聞いておるのです。それがいよいよ自分の身上、いわゆる、血肉になってゆくことなんです。
 ある方が発表しておりました、丁度前の・・?の敬親会の時に、私が皆さんに「あなたにとって信心とは何か」を一人一人に聞いたんです、「信心というのは私にとって命だ、否命以上だ」というような発表を聞かせて頂いて丁度1月後にそのことを思い考え続けてたある行き帰りの方が発表してました。
 私にとっても命以上だ、親先生が云われるように、けどこれは親先生と私との縦のつながりにおいてのものであって、横のつながりになってくる時にそこに分からないもの、疑問を感じる。
 先だっても「腹立ちのない世界不平不足のない世界に住みたい、本当にそれで行こうと思うて一週間余り修行さして頂いたら、一週間目ぐらいにどうでもここは一言云うとかならんという事が起こった」という発表をしておられました。
 それで私は申しました事でした、「縦の横のといわずに、例えば横の云わずにはおれないといったような処でも言わば、有り難く受けていけれる、云うなら、稽古、そこから縦も無からなければ横のない、いわばおかげの世界が開けてくるんじゃないですか」というふうに申しましたことでしたけれど、私はそれを聞きながら思いましたね。
 もしこの人が今云っているように「信心は私にとって命、否命以上だ」と云われた時に神様がどうなさるだろうか、と思うた、どう思いなさるであろうかと思った。。
 これは対人間の場合でもいいんです、好きな人が出来た、「私あなたは私にとって命だ命以上に大切だ」と例えば云うても相手がその人を嫌いであったらどうでしょう、見苦しいごたあると思いますね、好かん人から「あなたは私の命です」となんて言われたらどうですか、これはね、もう一辺考え直さないといけない。
そりゃ皆んな信心は私にとっては大切なもんだ、私にとって、まあ本当を云うたら赤裸々に云うたら、私にとって神様とは便利屋のようなものだ、お願いする為の神様であって、分からん時にはお伺いしたりその程度のご用ではないだろうか、それならそれでいいじゃないか、そこから発足した信心、それがダンダン信心が本当のものになってきて神様の御心に添い奉る、神様の思いにも添わして頂こうという時に神様の御信用が付いてくる、その神様の御信用が付いた人が、「私にとって神様は命だ、命以上だ」と云うた時に始めて本当のものが生まれてくるのではないだろうか。
 だから対人関係の場合に云うたらそれは分かる、ある人が例えば私の嫌いな人が「私にとって親先生は命です、命以上です」と例えば云われたらうれしいでしょうか、こっちは好かん人じゃもんね。
 私はこれはね、私は本当に神様は私に信心…?命だ大切なものだということは有り難いが、果してそれを聞き届けて下さる神様が果たして喜んで下さるだろうか、まずは神様のみ心に添い奉るあり方を素直に素直に頂いていく信心が土台において出来てからの私は「信心は私の為には生命だ生命以上だ」と言うた時にはじめて本当のものになるのではないでしょうかね、私は昨日その方の発表を聞いて、そんなことを思いました。
 ・・・・?の一人一人も「信心は私にとって命だ」と云われる人が多いだろうと思うです、ところが果して私がそんなして神様が喜んで下さるだろうか、神様から嫌われる自分といったようなものが「神様 私は生命です」と云われたら、神様のほうが身震いさしたる、イヤイヤしなさるだろうと思う。
 素直に神様の思いに添い奉る、本気で神様の願いに添い奉るといったようなものが出来るということは、恵介君のその話ではありませんけれども、本当に神様の御働きそのものを御働きとして、神愛として頂けれる信心、いよいよ成り行きを尊ぶ、大切にさせて頂くあり方が身に付いた時、もちろんそこから信心体験が大変豊富になっていくでしょう、実験実証が出来ることでしょう、それでいて始めて「信心は私にとって命だ」ということになるときに、本当の、いわば、合楽世界とでも申しましょうか、本当の神様と私の間に善いものが生まれてくるおかげになるのではないでしょうか。
 なるほど上から下に見ずを流すのはみ易いが下から上へ水を流すのは難しい、けれどもその難しいことが有り難いと分かる、場合によっては腹をおさんならん事があるかもしれん。
 ここに10人なら10人に、ずらっとご飯を注ぎ渡された、ところが自分の処だけが右回りになっても左回りになっても、お箸が足りなかった、回ってこなかった、その時気付いた、手つかみで食べるわけにいかん、「神様がたべるな」と云いなさるなとそこに神の声を聞く生き方こそ成り行きを大切にする尊ばせて頂く生き方ではないだろうか。
 一事が万事そういう生き方なんで、そこに我情が取れてくる我欲が取れてくるのである、ゆはゆる、我が身は神徳の中に生かされてある事を分かり、神徳をまたわが身に受ける事が出来る、そして始めて「信心は私の生命じゃ、生命以上じゃ」となった時にいよいよ本当のものじゃないだろうか。
 信心は私にとって大切なものだ、私にとっては生命だと云う前に、果して神様の方が身震いするしなさるような事はないだろうかということを思ってみないといけませんよ。好かん処を好かれたと云われるんですから、
 神様の心に立て奉る素直心が出来て始めてそこに信仰体験が伴うてきて神様がいよいよ絶対のものになって神様、信心は私にとって生命でありますと至った事にならなければならんと思うです。
 それには先ず難しいな、けえども合楽で御理解をいただくと、そうすることが本当だという事が分って来る訳なんです、自分から求めて頂かん、与えずにはおかんという働きだけしか受けん修行精神が生まれてくる自ずと、それが難しいというなら難しい、下から水を流すように難しいけれども、その与えずにはおかん働きが頂かせてもらえるようになり、それこそ勿体無いと思う程しに与えずにはおかん働きが起こってくる、もう神徳の世界である。
 下から上に水を流すようにというのがそれこそ、上から下に、水を流すようにスムーズなおかげを頂けれる世界、神徳の世界である、辛抱していくうちには徳が受けられるという同じ辛抱でも今成り行きを尊びいよいよ大切にさせて頂ながらの辛抱でなけねばならんという事がわかりませんね。
                     どうぞ。